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靴磨き

厭世的な気分の時は靴の手入れがオススメです。ひとつひとつの色や形を愛でるように、またはその靴で訪れた場所を思い出してみたり。今晩もまとめて5足はやっつけました。奇妙な曲線を持った靴、ダサいステッチの入った靴。10年は履いているブーツのリペア跡を慈しむようになぜてみたり。妻の靴に「卑弥呼」って刻印されているのにドキマギしたり。少しは気が晴れて博愛的な気分にもなるのですが、ビブラムソールの溝に小石が挟まってなかなか取り除けなかったり、変梃な靴ばかり求めてしまうおのれの人生を自嘲したりするうちに、おのずとメランコリー気持ちになったりもするのです。なにはともあれ靴いじりにはどこか自分を見つめなおす作用があるらしい。

遠藤賢司が逝ってしまいました。10年前、地元の市民会館で「森に緑を増やそう」的なスローガンのコンサートがあって、出演者は電気楽器を排して、すなわちアコースティック。南こうせつが提唱する往年のヒッピーくずれ&懐メロフォークなテイストの企画に、俺にとっては掃き溜めに鶴。かのエンケンがラインナップされていたんだ。家族がなぜか招待券を持っていたので譲り受け、満員の会場でエンケンの出番を待ってじっと神経を凝らしていました。古き良き時代を懐かしむムードの中でエンケンだけは現役感バリバリだったな。「夜汽車のブルース」から始まったんだけど、イントロのギターのアタック音が他の演者と比較にならないくらい圧倒的。ほとんどの聴衆は遠藤賢司?誰?って感じで眺めてたんだけどその無骨なカッティングで場内の空気が一瞬にして変わったよね。3曲歌い終わった後にはなんかすごいもの見ちゃった感が客席に充満していて拍手喝采。たった3曲だったけど、大ホールでエンケンを観れたのはよかったです。「夢よ叫べ」の絶唱はいつ聴いても魂が揺さぶられます。エンケンは純文学になぞらえて純音楽を標榜していましたが、近年は、彼のように純粋に孤独や不条理に向き合う表現者が少なくなってきたなと思うんです。私も小説は圧倒的に純文学びいきで。若い頃から講談社文芸文庫を本棚に並べてイキがってます。腹の足しにならない、鉄錆を喰ってるような後味ですが。こんな感じになぜか救われるのだなあ。

本といえば先日、元町で世界で1冊だけの本展を鑑賞。コンセプチュアルな現代アートから内省的なつぶやきを綴ったもの、こどもの奔放で自由な発想の絵本など。見応えがありました。月の満ち欠けを記録した手紙の集積には立ちくらみがしそうになりました。生来飽きっぽく、思考が乱雑な私は習慣的・体系的になにかを行うのが苦手なんで、こういう丹念な積み重ねを目の当たりにすると、自分はまだまだ泡沫的に創作しているかなって、思う。これからは、パラレルに蛇行しているスタイルを縒り集めてひとつの世界観で熟成していく作業が必要。硬軟、清濁ありますが、純度が高いものにこだわっていこう。余技ではありますが似顔絵のブログも再開しようかな。キラキラ似顔絵全盛の風潮にウンザリしてたんだけど、描きたい顔も少しはあるのです。日々、靴磨きでもしながらブレないよう、おごそかに自重しつつ。

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