日本の夏は霊魂がざわめく季節。ドクタージョンも逝ったのか・・・。ニューオーリンズ音楽の魅力が詰まった「ガンボ」やファンクな「インザライトプレイス」が有名ですが、自分は「グリグリ」とか「バビロン」あたりの妖しいサイケデリアが好みで、今も愛聴するのはむしろこっち。それでもやはり「ガンボ」はアメリカ南部音楽を聴くきっかけとなった1枚で、ギターロックしか知らない17歳のガキにしてみれば、うねるようなピアノと祝祭的なセカンドラインのリズム、そして何よりも独特のしゃがれ声は新鮮でした。サイケデリックな「グリグリ」を聴いたのはだいぶ後で、ピーターバラカン氏が、ザ・バンドの「ミュージックフロムザビッグピンク」、ヴァンモリソンの「アストラルウィークス」と並べて、1968年における奇妙な音楽の収穫として紹介していたのがきっかけ。そんときは「ガンボ」のとぼけたムードとのギャップに驚きながらも不思議と魅かれましたね。当時人気だった日本のボ・ガンボスにもサイケで呪術的なテイストがあって、あのドープ感はこっちだな、とか考えたり。さすがに黒魔術的な音楽までは探求しませんでしたけども。ドクタージョンは前述のヴァンモリソンのアルバムも共同プロデュースしていて、こちらも名盤。邦題「安息の旅」。意外に過小評価だと思うんですが、なんでだろ。というわけで自分的音楽史の導師(グル)がまたひとり鬼籍に入ったというはなし。合掌。
それにしても暑い日が続きます。先日コンビニで「温めずに食べてもいいよ」といった謳い文句がついた“冷たいおでん”を見つけた時は軽い衝撃でした。好奇心で買ってみたんですが意外に美味かった。もともと猫舌気味のせいか惣菜は熱々よりも常温が好みで、コンビニでおにぎり温める感覚がよくわからない自分にとっては、お誂え向きかなと思いました。そこで考えたのは、幼年期に観たテレビの影響というものは根深いもんだなということ。ひょうきん族世代の自分にとって、おでんという食べ物は熱々と決まっていたんです。つまり火傷するくらい熱々だからこそ、片岡鶴太郎の被虐芸が成立するというお約束。刷り込まれた常識が覆る瞬間は新鮮な驚きとともに一抹の寂しさがあるものですね。それはいまや即身仏化著しい鶴太郎先生が醸し出す違和感のようなもので、どことなく苦味走る感情、無常観といってもいいでしょうか。そんな感慨すら呼び起こすのです。
まあそもそもですが、熱々の食い物を有り難がる風潮も実際どうかと思いますけども。煮物なんかは本来は常温が美味いんじゃないだろうか。鍋物だってコンロの火を消してクタクタになった終盤からが味わい深いものです。慣習のまま無心に熱々で食っていたものをいったん冷まして味わってみるのも一興かもしれません。東海林さだおがエッセーで、幼い頃下校してきてすぐ台所へ向かい、お鍋に残った朝食の残りの味噌汁を温めないですするのが好きだったって書いていたけど、その感覚がよくわかるんだな、俺。このしみったれた嗜好への共感は、自らの人生観などに大いに影響しているような気がして途方に暮れてしまうのですが、温度が低いということは悪い面ばかりでなく、逆に熱さに紛れて感じにくくなった微細なエレメントも楽しむことができるというメリットもあるのではないかしら?たとえば冷めた味噌汁だと、熱々の状態よりも汁に染み込んだ食材の味がより鮮明に感じられるというような。臭い飯は勘弁ですが、冷や飯食うのは日常茶飯事の私。食に対する了見というのは不思議とその人の人生そのものを暗示しているのかもしません。それにしてもこのブログも飯の話題多いですな。根が卑しいんだわ、きっと。