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貧乏備忘録

趣味ってのは無為奔放であってしかるべきで、ことさら実益へつなげようとする態度は窮屈で可愛げが感じられないんだな。基本的に無趣味を自認しているわたくしですが、強いていえばと聞かれれば控えめに夢日記が趣味だというようにしてます。そもそも他人の夢の話なんてのは無価値で退屈なものであって、のろけ話を聞かされているようなむずがゆさがあるもんですから、人前で披露することは極力自重しているのですが、恥を忍んで告白すると、自分は若いころから、断続的に夢を記録する習性があります。ここ数年、環境の変化か、強い印象に残る夢を見る機会が増えてきたんで、備忘録的につらつら書き残しておこうかなと思って夢日記を再開している次第なんで。

ご承知の通り、どんなインパクトの強い夢でも、目覚めてしばらくすると、大抵その印象は記憶の彼方へ塵芥のように消えてしまうものですが、それは合理的に考えるともっともで、眠っているときに体験した世界が、覚醒した日常に強く影響したとすると、そのひとは正気でいられるはずもなく、夢が記憶されづらいということはあらかじめ脳のメカニズムに組み込まれてるんだといえなくもなく。夢をあえて記録するという行為はそんな自明の理に抗うというか、アンタッチャブルな潜在意識に触れるようなイケナイ魅惑もあって、それはやっぱりめったに人には話せない、うしろめたさを孕んでおりますな。ひとりよがりで逆説的な趣味ではありますがが、こんなものに時間を費やすことに悦びを感じるってのは分析的に分析すると、多分に現実逃避っていう側面があるんじゃねえかなー。ここんとこ世の中ぜんたい、殺伐としちゃっているから。

自分の夢日記の手法ですが、ひごろだいたい午前3時くらいに夢うつつのまま目が覚めます。見た夢の余韻が冷めないうちに、寝床のそばの机に置いてあるメモ用紙に夢でおこった出来事、登場人物や場所なんかを簡単に記しておく。つながりのある文章にしてしまうと脳が覚醒してしまって眠れなくなっちゃうんで、キーワードだけ、ほどほどに。目が冴えるんで電気も明るくしちゃだめです。また眠ることで運が良ければ夢の続きを見れますし。朝、目覚めてそのメモを確認し、寝起きのヤニでも吸いながら夢の残像やその気分を反芻します。視覚的なインパクトがあった場合、簡単なスケッチを描くこともあります。その仕込みさえしておけば、脳がはっきりしている状態のときにメモをもとに文章に起こすだけ。夢の賞味期限は大体1~2日で、ほったらかしのままそれを過ぎてしまうと、ドリームロス。まさに浮世の塵芥となってはかなく消えてしまうだけ。

夢日記の面白いところは読み返した時にその記憶が映像として蘇るところです。たとえば自分は20年以上前の夢日記を読み返してみても、まざまざとその情景が脳裡に浮かぶんですね。もはや現世の思い出の数々も忘れがちな年齢なのですが、不思議なもんです。予知夢じゃないけれど、あとあと考えると、アレ、コレを暗示していたんじゃないかって夢もやはりあって、現実世界との符号やデジャヴ的な接点を探ってみることもあります。かといってユングやフロイトのような心理学における夢分析みたいなものにはあまり関心ないですが。

実は自分は夢の情景そのものが作品のモチーフになることはほとんどないのですが、夢が持っている特性、たとえば暗喩的・啓示的ともいえるメッセージ性や自由に時間と空間を行き来するファンタスティックな展開などが、創作の基盤にはなっているようです。世界が入れ子になってるというマトリョーシカ的構造や自分の分身が活躍するドッペルゲンガーな発想、胡蝶の夢などに代表される無為自然。もはや宿業とも言える私のややこしい世界観は幼い頃から夢を強く意識することで育まれたものかもしれんです。

夢に着想を得た作品には昔から興味があって、小説家が描いた夢日記ですとか夢を題材とした美術作品などにはおりおり触れてきました。シュルレアリスムの作家を筆頭に、夢特有の不条理な展開や物理の法則から解き放たれた自由な空間認識がポエティックに創造性を刺激するというのはわかります。ただ、自分の見る夢って大概は淡々として、卑近なもので、実はそこまでドラマティックだったり、大袈裟じゃないよなっていう思いもあって。例えばつげ義春の一連の漫画や内田百間の小説なんかは、描写がとても率直で余計な脚色や含意を感じさせなくて、実にしっくり共感できるんだよな。夢なのにリアリティがあるというか。夢の世界が持っている、異質ではあるんだけれども生々しい実在感のある感触、日常と地続きながらどこか決定的に寸法が狂っていて、それがあらかじめおりこみずみで物語が続くというイリュージョン・・・・。

つまるところ、夢ってのは、学問や科学の力が及ばない聖域みたいなものであって、自分はそんな不埒で自由な代物を、夜毎体験できるということによろこびを感じ、それを記憶しておきたいがために夢日記を記すのだろうな。

・・・人の夢の話ほど退屈なものはないって言っておきながら最近記録した夢日記をひとつご披露します。

2021年6月

「キャンプ場のようなところ。何組かの家族がテントを張ってレジャーを楽しんでいる。そこへ2頭の熊が現れたと騒ぎになる。黒々として大きな熊は、人々の合間を縫って走り回り暴れている。この騒ぎで妻や娘とはぐれてしまったが彼らは無事だろうか。あわれにも何人かの大人が背後から襲われている光景が目に入る。ひとしきり暴れた2頭の熊はその後、森へ立ち去るも、入れ替わりに今度は何十頭という熊たちが私たちのところへ押し寄せてくる。これではもう助からないだろう。しかし存外、熊達の攻撃時間は短かく、あるタイミングで号令でもあったかのようにその動きは緩慢になる。熊達は山の斜面に点在する「くぼみ」のようなところで互いに体を寄せ合ってうずくまっている。その姿は穏やかで阿寒湖のまりものようだ。冬眠しているようにも見える。妻子とは無事に落ちあい、私は安堵する。しかし気の休まる間も無く、さらに別の新しい熊の群れが押し寄せてくる。今度は白い熊の大群。だがこの白熊は人に噛み付いたりするような凶暴な性質ではないようで、むしろ私たちに何か窮状を訴えるかのような表情で、攻撃する気配がない。それでも相次ぐ熊の登場に疲れ果てているところに、別の時空からやってきたらしい人間の気配がする。陰陽師?平安時代の貴族のような格好をした眉目秀麗な男達が弓矢を持って構えている。やれ助太刀が来たと喜ぶのも束の間、彼らは人間側ではなく熊側の勢力であることが判明。いよいよ熊の支配下に置かれたと悟った私たちは絶望する。」

自分にとって熊に襲われる夢はひとつの典型で、もしかするとなんらか前世と関係しているのかもしれん。あとは列車で移動する夢、地上からありえない跳躍力で飛び上がる鳥瞰の夢、Tシャツ1枚の半裸状態で街に放りだされる夢などをよく見ます。それが悪夢のたぐいであればあるほど強く印象に残るもんです。

そんなわたしの新作絵本。人に言わせると、それこそ他人に話すのがはばかられる夢のように、複雑で難解なパラレルワールドみたいなんですが・・・。そうかな?試しに読んでみてください。

流転堂ウェブショップと函館近郊では石田文具さんで販売中です。

 

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