アニマルパニック映画の古典といえばヒッチコックの「鳥」ですが、みなさんはご覧になったことあるだろうか。かつて私はこの不条理ホラーの影響で、潜在的な鳥類への恐怖心が呼び起こされてしまった経験がある。それ以来、鳥さんたちとは意識して適度な距離を置いているのだが・・・。ときは2022年初夏の候、カラスの子育てシーズンがピークを迎えている。街路樹のしげみに巣を構えカァカァと鳴くその声に必要以上に恐れるのは前述の夢魔のような精神的トラウマ以外にも深刻な事情がありまして。というのも私はもう今年に入ってすでに都合2回、きゃつらに威嚇攻撃を受けているのである。
もともと警戒心の強いカラスは、この時期とみに人間の動向に神経過敏になるらしく、親ガラスはまだ未熟な子ガラスを守ろうとして巣の近くを歩く通行人に闇雲に因縁をつけるのである。畜生にも親心と考えれば、あわれではあるが、頭のすぐそばを木炭のような色をした物体が、かすめて行くのは気持ちのいいものではない。それにつけても、他に通行人がいないわけでもないのに、どうも自分だけが頻繁に標的にされている気がするのはなぜだろう。ヒッチコック以降、鳥類と適度な距離感を保ち続けていたつもりの自分になにか後ろ暗いところがあっただろうか。日課の散歩も億劫になり、じゃっかんノイローゼ気味になった私は日頃の自分の行動を検証してみたのである。
カラスに襲われるのはだいたい朝、こどもを幼稚園に送り届けるために歩く馴染みの通園路である。彼らはたまさかそのルートのどこかに巣を作ったのであろう。カラスは木の枝の他にハンガーなど、街で拾ったさまざまなな材料を使って巣を作るそうだ。しかるにそのカラスの態度についてだが、たとえば通園往路にて、私たち親子が歩いている先にゴミ捨て場があり、そこでつがいのカラスを見かけたとしよう。私は一瞬ドキリとし、いらぬ刺激を与えてはならぬと戦々恐々通りすぎるのだが、そのときは意外にも襲ってくる気配がない。カラスはつとめて無関心を装っているのか、スカしてゴミを漁っているだけだ。ああなんとか無事だったと胸撫で下ろし、こどもを送り届けたその復路。油断も隙もありゃしない。まるでわたしが一人になったときを見計らったかのように、さきほどスルーしたはずのカラスが夫婦揃って襲ってくるのである。自分はマニュアル通り、頭を小突かれないように両手を上げる、雨も降っていないのに傘をさすなど、人目もはばからず、牽制しながら歩くのだが、100メートル以上はずっと追跡してくる。
カラスは小学校低学年くらいの知能を持っていると言われており、観察眼も鋭いそうだ。それなりの想像力だってあるだろう。それに加えていまは絶賛子育て中であるからして、こどもを愛護する気持ちが平生より偏執狂的になっているにちがいない。私はそこで推察した。もしかしてだけど彼らは、さっきまで子連れだった私が帰り道に一人になっているという行動を不審に思っているのではないか。その場合、復路にこどもを伴わない理由が通園のためであるという事実は捨て置かれ、私があたかも映画「鬼畜」の父親のような無慈悲な置き去りをしてきたとか、どこかに穴を掘って我が子を埋めてきたとか、そんなサスペンスな展開にまで想像を飛躍させ、勝手に興奮していないとも限らない。すなわちカラスの邪推が、義憤に転化し、同じ親としてこの男、許すまじ!といった正義の鉄槌メカニズムが発動していると考えられなくもない。人間の世界ではよく見聞きする話である。あるいはそもそも私たちが親子であるいうことを想像だにせず、単に見た目で判断し、「白髪頭の怪人に連れて行かれるあわれな女の子」という、ダークファンタジー的設定にまで想像の羽根を広げてしまっているとか・・・。しかし実際はそんな複雑な話でもなく、私ひとりがあらかじめマークされているというのが現実的かもしれない。彼らにとってみればターゲットが一人でいる時に攻撃するほうが効率的だし、ひるがえって親ガラスの心情を考えると、人間とはいえ幼子が見ている前で暴力沙汰を引き起こすのは不粋だという美意識、ひいては親心もあるだろう。
それにしても嫌われたものだ。私は元来、鳥を憎んでいるわけでなく、むしろ彼らには畏れと憧れという肯定的思慕があり、雀のちゅんちゅら鳴く声に目を細め、美しい野鳥の姿や、トンビが輪を描く様子にうっとりするようなナイーブ男子である。がしかしその反面、町に巣食うカラスに対しては苦々しい存在として忌み嫌う、差別の心を宿した鳥獣レイシストでもあるのだ。頭の良いカラスはそんな私の内面の不実を敏感に察知し、抗議の意味を込めてイタズラを仕掛けてきているだけなのかもしれない。
この時期、カラスに襲われている人の動画をニュースなどでよく見かけるが、自分のことのように気の毒で仕方がない。頭上にはばたく黒影に狼狽する人の後ろ姿はいつだって情けなく孤独だ。先に述べたヒッチコックの映画でもなぜ鳥が人を襲うのか最後まで理由は明かされず、戸惑う人類の無力さばかりが際立つ。世は自然との共存などと謳っているが、地球上で人間なぞは所詮、地を這う獣の類で、自由に空を翔ぶ鳥類は別格なのだ。カゴの中で飼い慣らそうなどとは夢にも考えない方がよい。おのれの不自由な身の上を思い知らされるだけなのだから。太宰治の小説に出てくる「私は鳥ではありませぬ。獣でもありませぬ。」という一説。これはコウモリのたとえなのだが、子どもたちが唄うこの童歌を聴いて主人公の父親が涙する場面をふと思い出した。